伝統と新しさが共存する街

徳川幕府入府以前

室町時代頃までは、台東区の中央部分は海でした(不忍池はその名残)。ただ、石浜から蔵前あたりの隅田川右岸は微高地となっており、古くからの史跡や伝説が残っています。

鳥越古墳

鳥越神社には古墳から出土することもある蕨手太刀(わらびてのたち)が現存しています。
これは天保7年(1836)に掘り出したものと伝えられ、他に勾玉など計6点あったとされています。
古墳の跡地に神社が築かれたという説もありますが、証明はされていません。

鳥越神社白鳥伝説

日本武尊が東夷平定のためこの地に滞在していた際、土地の人々がその御徳を慕い白鳥明神として創建したと云われます。
日本武尊は死後白鳥になって飛び立ったという伝説があり、鳥居の下の小さな橋の名前「白鳥橋」にもその痕跡が残っています。

平将門

平安時代中期の関東豪族。
将門の乱で有名ですが、この地にも伝承が残っています。
鳥越神社には、将門の手が埋められているという伝説(大手町の首塚が有名ですが)や、この地を将門の首が飛び越えていったので「飛び越え=(鳥越)」となったとも。
鳥越神社宮司の鏑木家は昔の千葉氏の流れであり、将門も千葉氏の血を引いています。
ただ昔は有力豪族が寺社にかかわるケースが多いため、単純に結びつけるのは少々強引かもしれません。

源頼義・義家父子

源頼義は平安時代中期の武将で、源(八幡太郎)義家はその長男。
鳥越神社や銀杏岡八幡神社にその伝承が残っています。
鳥越神社には、
「奥州鎮定(前九年の役)のためこの地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ったということから、鳥越大明神と名付けた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。」と伝へられています。
銀杏岡八幡神社には、
「当時は小高い丘であったこの地に朝廷の命にて奥州平定(前九年の役)へ向かう途中、源頼義・義家父子はこの丘で休憩をしていた。その時、川上より流れてきた銀杏の枝を拾い上げ、その枝をこの丘の上に差し立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と都の氏神に祈願し旅立った。奥州平定後この地に戻ってきた時には、丘の上に差した銀杏の枝が大きく繁茂していたので、義家公は御神恩に感謝し、この地に大刀一振りを捧げ八幡宮を歓請したのが、 康平5年(1062)当社の始。」と伝へられています。

在原業平(隅田川)

隅田川が和歌に登場するのは伊勢物語が初見です。
伊勢物語は、「むかしおとこありけり」で始まり、在原業平の歌が多く読まれている歌物語です。在原業平がおとこのモデルとも云われますが確証はありません。
「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」は東下りの歌で有名です。以来、隅田川は歌枕として広く使われるようになりました。
ちなみに、東武線の東京スカイツリー駅は昔、業平橋駅でした。この業平という地名が在原業平にちなんだ地名という説がありますが、真偽は不明です。

江戸重長

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、平安時代末期から江戸氏がこの辺りを治めていました。
重長は二代当主で八ヶ国の大福長者と呼ばれ、源頼朝が下総国から武蔵国へ入るのに一時抵抗した人物として有名です。
この重長の軍事拠点が石浜城と云われます。石浜城がどこにあったかははっきり分かっていませんが、石浜神社や待乳山聖天など諸説あります。

太田道灌

室町時代後期の武将で、諱は資長。
今知られる江戸城の原型を築いた人物です。
また、隅田川に初めて橋(浮橋)を架けたのも太田道灌だったと云われています。
和歌も多く残していて「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」は、御土御門天皇とやりとりしたものです。

参考

台東区ホームページ
国土交通省ホームページ
台東区史
東京都神社名鑑

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