伝統と新しさが共存する街

江戸時代

徳川家康が江戸に入ったのは、天正18年(1590) 8月1日です。当時は荒れ果てた地で、丘や池が至る所にあり、町として機能させるには難しい土地でした。家康は大土木工事を行い、ほぼ平坦な土地へ改良することで都市機能を充実させる土台を作りました。

浅草御蔵

元和6年(1620)、幕府の米蔵として浅草御蔵が誕生します。
鳥越神社の丘を崩して隅田川右岸を埋立て、8本の堀を作り多くの米蔵を造っています。
ちなみに四番堀と五番堀の間にあったのが「首尾の松」です。
明治初期まで米蔵として機能していましたが、一部が東京職工学校(現在の東京工業大学)となるなど縮小し、関東大震災で全て焼失しました。
蔵前という地名は御蔵の前ということから呼ばれるようになりました。

明暦の大火

明暦3年(1657)正月18日の昼前、本郷丸山の本妙寺から出た火は隅田川まで達しようとしていました。
一方伝馬町にあった牢獄にも火の手がせまり、牢奉行が罪人を解放したのですが、それを牢やぶりと勘違いした浅草門(=浅草見附門、神田川に架かる浅草橋の南側にあった)の門番が門を閉じてしまいました。
そのため多くの町民が逃げ場を失い、炎に包まれたり川へ飛び込んだりしたそうです。
浅草門の悲劇とも言われたこの大参事の死者は2万人とも言われ、幕府は穴を掘ってその遺体を埋め、一寺を建てて供養しました。この寺が両国の回向院です。

人形市(浅草茅町)

江戸通りの両側、浅草橋から浅草橋駅付近までは、昔、浅草茅町といい、享保年間(1716-36)頃に雛市が立って賑わっていたとされています。
現在も老舗が軒を連ねており、代表的な店として、吉徳(正徳元年(1711)の創業)、久月(天保6年(1835) の創業)、原考洲(明治44年(1911)の創業)、秀月(昭和24年(1949)の創業)などがあります。

エンマ堂

浅草天王町に閻魔堂が移ってきたのは江戸初期の頃、本尊は閻魔大王で運慶作の丈六坐像であったと伝えられます。
「蔵前の閻魔堂」として信仰を集め、正月と7月の16日に行われた縁日は多くの参詣者で賑わいを見せていました。
関東大震災にて焼失。浅草橋二丁目の玩具会館横に、「閻魔堂跡」の石碑が残っています。

隅田川の渡し(富士見の渡し、御厩の渡し)

江戸時代、隅田川に掛かっていた橋は「千住大橋」「吾妻橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」の5つです。
よって渡し船が多く存在し、昭和の時代まで広く利用されていました。
御厩の渡しは、現在の厩橋から少し下流のところに存在。
富士見の渡しは、現在の蔵前橋から下流、浅草御蔵の南端付近に存在。

天文台

蔵前橋通りの蔵前四丁目交差点から南側一画に江戸幕府の天文台がありました。
天明2年(1782)~明治2年(1869)まで存在しており、寛政暦、天保暦はここで作成されたと思われます。
葛飾北斎の「鳥越の不二」には、背景に富士山を手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれています。

織田秀雄

天正11年(1583)、織田信雄の長子として生まれ、祖父は織田信長です。
関ヶ原の戦では西軍としたため改易され、浅草福富町(蔵前4丁目辺り)に居を構えました。
慶長15年(1610)、28才で死去。

参考

台東区ホームページ
台東区史
東京都神社名鑑

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