鍵屋と玉屋の話

1659年奈良県篠原村から称兵衛が江戸へでてきて鍵屋を日本橋で開業します。
それまでの花火は手筒か火車やねずみ花火だった様です。
鍵屋が手筒の中に球を入れたもの(今の連発)を作り大人気になったそうです。
あまりの人気に又花火禁止令が発令された様です。
鍵屋の口伝書によると、1808年7代目の時1番番頭が独立し両国吉川町に玉屋を開いたといわれ、鍵屋にあるお稲荷さんが鍵と玉を持っているところからこの名前が付いたようです。
しかし1843年失火で所払いにあい別の場所へ移ったといわれてます。
《新設 紙縒りの線香花火は玉屋が作った》店主

2種類ある線香花火そのルーツについてお話します。
一つは、葦や藁の細い管の中に火薬をいれ火鉢に立てて遊んだもの。
この格好が仏壇の前に供えるお線香が燃える様に似ている所からと言われる。
多分東京にはこの細い葦や藁が少なかったので、葦の取れる小さい川の岸が多くある関西で人気となり藁すぼの花火なのでスボ手牡丹と言われる様になったようです。
又、関西のおだいじんが芸者と船遊びの時火鉢に立てキセルの火でつけ遊んだようです。
江戸画コレクションで有名な吉徳さん秘蔵の錦絵の中に1820年頃書かれた町中の花火売りの絵がある。
その口実に線香花火は紙観世と言う文言があり(紙観世とは紙のこよりの事です)
この時初めて紙で縒った線香花火が現れるわけで、江戸-の花火屋玉屋が作り売りだしたと言ってもおかしくないと思われる。
叉、関東には和紙が豊富で、特にこの花火に欠かせない『松煙』(現の墨の元)が沢山あり、アイデアマンの玉屋のこと黒色火薬にこの松煙をまぜ和紙にくるみ作ったのではないかと思われる。
和紙に長く手で縒るから長手、大きく綺麗な花から牡丹ここから長手牡丹といわれる。
これが江戸文化と上方文化の違いと思われます。
寺田寅彦博士の短編集 備忘録に線香花火一本の燃え方についていろいろと書かれてる。
線香花火を誕生から終焉までの人生に例えてます。
叉その燃える様を 牡丹 松葉 柳 ちり菊に例えました。
明治時代から現在まで又国産線香花火等については次回に。